よだか総研から見た世界経済とローカリズム(ヤニス・バルファキス「世界牛魔人」を基に)

2021年7月25日(日)、早川健治氏・白崎一裕氏が開催した「『世界牛魔人』爆誕前夜祭」というイベントに、よだか総研メンバーが出演した。「世界牛魔人」は、元・ギリシャ財務大臣で経済学者のヤニス・バルファキスの著書であり、戦後の世界経済の膨張を実現した米国中心の金融循環システムを解説している。主催の早川氏は日本語版の翻訳者、また白崎氏は発行者である。上記イベントへの参加を機に、「世界牛魔人」を基に、よだか総研から見た世界経済とローカリズムについて整理した。以下にレポートとして公開する。

起:自動黒字再循環装置への信頼について

p.94 戦後世界秩序の青写真を巡るブレトン・ウッズ会議でケインズは心配を募らせていました。戦前の金本位制がそうだったように、固定相場に基づく国際制度もまた重度の衝撃には耐えられないことを知っていたからです。小規模の危機ですら深刻な危機の引き金になってしまうだろうとケインズは予言しました。それへの対策として新国際制度に世界黒字再循環装置(Grobal Surplus Recycling Mechanism:GSRM)を搭載すべきだと彼は論じます。特定の国々に制度的黒字が、他国に恒久的赤字がそれぞれ過剰蓄積されるのを防ぐためです。

p.301 GSRMが世界経済社会の安定の必要条件であり、それなくしては第二次世界大戦前のような一触即発状態への背進の危険性すらある。現代が誇る大量殺戮兵器の存在も忘れてはなりません。未来への暗夜の灯火となりうる抜け道は存在するのでしょうか。

自動的な黒字再循環装置を運用できるほど、公正な人間はいない。そもそも、全ての「自動化」にはメタルールがあり、純粋な自動化など存在しない。自動化の自動化の自動化の設定は、人力である。この人力部分の決定を行う人が高潔無私の賢人であるという前提(ハーベイロードの前提)は、すぐに壊れる。仮にケインズ本人が高潔無私であっても、その後を継ぐ人物がみなそうであるという保障は不可能である。

そもそも、プルードンによれば貿易の不均衡は、1人の人間の中にも起る。彼が、食料を生産し、自ら食べるときにも不均衡はある。労働者としての彼は、もっとも少ない労力ともっとも少ない産量を希望する。一方、消費者としての彼は、上等な食料を大量に希望する。この矛盾は、不滅の公理であり決して無くならない。彼は、労働者であることと消費者であることを生活の中で繰り返し、その時々で不均衡を自ら心の中の闘争によって折り合いをつける。彼が、どの立場にたって考えるかによって均衡は容易く破られるのだ。

本質的に、これが1人の人間から集団になったとしても、労働と消費の矛盾は決して消滅しない。この矛盾と不均衡が、何かしらの装置によって解消される(ヘーゲル的弁証法によってジンテーゼとなる)と想像することは知的な堕落だ。プルードンは、解消されない矛盾(アンチノミー)による弁証を、系列弁証法といった。大小問わず、闘争は決して無くならず続く。人間は、労働者であり消費者であり続けるのだ。奴隷にすべての労苦を押し付けて、不均衡が見えなくなったとしても、アンチノミーと、それを生み出す生理的な原動力は、決して無くならない。

 つまり、どれだけ巨大な安全保障装置を作っても、その装置が巨大であればあるほど、勃発する闘争は巨大になる。したがって安全装置は要らない。闘争は小さいほうが良い。子ども同士のお菓子の取り合いならば、当事者同士でケリが付く。国連平和維持軍の出番はないだろう。

一方で、巨大な装置がもたらす欺瞞に満ちた夢から醒めたくないと思っている人は、とても多い。自動黒字再循環装置に関していうと、被抑圧者を含む多くの人々が、配当や年金や給料や売上が目減りすると「困る」と思っている。彼らは、たとえどれだけ嘘や欺瞞に塗れていても、自動黒字再循環装置による世界経済の成長を求めている。この理由は、今日、国家や社会に比べて、市場への信頼度が圧倒的に「高い」からである。

承:市場を信頼することの合理性について

p.322 この偽善・欺瞞は250年前からずっと資本家の企業文化全体を支え続けてきた。「国家は市場の敵であり、市場社会は国家から独立して存在する」という考えだけど、人類史においてこれほど悪趣味なジョークは他にない。「誰かが私的に築き上げた富を、国家が社会安全網(ソーシャル・セーフティーネット)を必要とする労働組合や労働者階級を代表して盗賊よろしく奪っていく」という物語は真実を完全に捻じ曲げてしまっている。有史以来、富とは集団がつくり個人が私有化するものであり続けてきた。

p.358 「超少数のための社会主義」という現状を打破するための運動がない

被抑圧者は「勝ってのし上がってやる!!」というYOUTUBERや芸人のような立身出世のサクセスストーリーが大好きである。勝ち負けの話や、勝つ方法の議論はするけれど、そもそも、グレーバーが「経済封建制」と指摘したような経済・金融の階層構造自体に対しては、まったく疑わない。江戸末期に民衆運動として行われた「ええじゃないか運動」では、民衆は「神君・家康公」の復帰を祈願していた。それと同じように、さまざまな社会問題が、システム自体の問題ではなく、単なる一時責任者の問題と認識されている。その結果、被抑圧者自身が、多くの問題を自己責任化している。

この被抑圧者の認識のパラドクスに対して、被抑圧者自身が「真実を知らない」「原因に気が付いてない」と推定して議論するのは誤りであり、そこには被抑圧者としての合理性が存在すると、我々は考える。実際は、「自己責任化した方が得」に見える構造が存在するのではないか。

例えば、ネズミ講(あるいはマルチ商法)では、加害者と被害者を区別するのが難しい。より騙されやすい人間を見つければ、その人は、被害者から加害者に昇格する。ネズミ講やマルチ商法に進んで参加する人にシステム自体の詐欺的構造を説得したり告発しても、「自分は騙す側の人間だから」と反論されて、まったく耳を貸そうとしない。自動黒字再循環装置が支える資本主義は、巨大なネズミ講のような、欺瞞を隠蔽ながら参加した方が得をするゲームの一種である、とも表現できる。実際のネズミ講と異なる点は、資本主義では、被害者から加害者への「昇格」が、ほとんど起こらないことである。

被抑圧者にとって資本主義(市場)がとりわけ信用されていることの背景には、「社会も国家も、私を助けない」という経験的な確信も存在している。だが、自動黒字再循環装置だろうが、国家だろうが、超国家的機関だろうが、大きすぎて潰せないシステムはどれも結果的に「超少数のための社会主義」に陥る。これらは全部、信頼するに値しない。よだか総研は、「巨大なネズミ講」自体を拒否する。よだか総研は、「でかいはダサい」と主張する。

転:巨大なネズミ講と対峙する方法について

落語「大工調べ」では、大工道具という生産手段を奪われた「与太郎」と、大工の「棟梁」が、資本家かつ役人である「大家」に対して共に戦いを挑む。ここに、巨大なネズミ講と対峙する方法論の1つが表れている。

立川談志(七代目) – 大工調べ

19:20〜 何がじゃ丸太棒め。なんだこの野郎。目も鼻も血も涙もねえ手足もねえのっぺらぼうの丸太棒だっつったんだよこの野郎……手前はどういうわけでもって大家とか町役とか言われるようになった、手前知らねえと思ってやがんだふざけやがって、こちとら全部知ってるんだよ、ええ? 手前なんなんだい、どこの丸太か牛の骨か分からねえ野郎が北風なるい風でもってヒューってカラかんなクズみてえに吹きまくられてこの町内へ転がり込んできやがった。手前そんときのざまあ忘れたとは言わせねえぞ、洗いざらの浴衣一枚でもって寒中にガタガタ震えていやがったガタガタ野郎め、このカラスめ! 助けてくれだのどうのこうのって方々へ泣きつきやがって手前が乞食同様の姿でいたのを、町内の方お慈悲深え方々が揃っておいでになられるから、よしたほうがいいんだ、あんな小汚ねえ奴の面が良くねえ目が良くねえ色々言ってやろうと思ったけども、人間一匹殺しちゃいけねえ、手前なんざ一匹だ、殺しちゃ悪いと思うから、なんのかんのと方々でもって話をして、あんな莫迦、手前みたいな野郎でもなんとかしてやろうじゃねえかってんでな、番太同様に住み込みやがって……箒の先にとっつかまって、冷や飯の残りの一口でも貰って、冷えついた味噌汁を胃袋にかっこみやがって、細く短く命を繋いだことを手前忘れたとは言わせねえぞ、この大莫迦野郎め! ……手前のことなんざみんな知ってるんだ。六兵衛は町内で評判の焼き芋屋、川越の本場の芋を厚っぺらに切って売るからガキは正直だ、八つ時になったら隣町外から来る大人は来るって大繁盛。手前の代になって気の利いた芋を売ったことがあるか! 場違いな芋を適当にぶち込んできやがって、焚き付けを惜しみやがってるから、生焼けのガリガリな芋でな、その芋を食って腹を下して死んだやつが何人いるか分からねえ、この人殺しめ、泥棒、こん畜生、死ね! ……貯めた金を高い利息でもって貧乏人に貸しやがって、泣かせやがって……

上記は、棟梁が大家に叩き付ける、「欺瞞の暴露」としての啖呵の一部である。棟梁が日常的に持っている共同体的・職業的な価値観や美学(=いき)が、資本や権力と対抗する場面で通底する価値観や倫理の体系として再構成されている。巨大装置の構造を不変の前提として認めたまま、一時的に責任者の問題を追求する単純な民衆暴力と異なる点は、装置自体(この場合は資本・権力)と真っ向から衝突する価値体系を突きつけている、という点である。棟梁は、また落語家自体は、資本や権力に対する批判を、他人任せにせず、また祝祭にもしていない。彼らは、自らの持つ「啖呵」あるいは「笑い」という力によって、日常的に、可視化し批判している。巨大装置の無限の膨張は、欺瞞を欺瞞として扱う言説や表現によってのみ、可視化して止めることができる。それらの言説や表現がトーンポリシングによって無力化されるのを防ぐために、よだか総研はアート・音楽・笑い・デザインなどの技芸に着目している。

また、棟梁が立板に水のごとく啖呵を切る一方で、与太郎はどれだけ頑張っても啖呵を切ることができない。ここに落語の聴衆は共感する。実際、日本の多くの人は与太郎のように、啖呵を切ることもなく、ヨーロッパ市民的な自由と責任の主体となることもない。それは、日本の人たちにとって、あまりにも厳しい道程である。役場をいまだに「お上」として扱う人がほとんどであることが示すように、日本は近代以前の封建社会から完全には抜け出していない。この状況において、すべての与太郎が「棟梁のように戦える」と考えることは現実的と思えない。与太郎が与太郎のままで生存できる社会を想像する方が、歴史的連続性があり、穏やかだ。また場合によっては、非西洋の新しい民主主義を見出す種になるかもしれない

与太郎を放っておけば、間違いなく、巨大なネズミ講の餌食になる。かといって、棟梁が与太郎を代弁する立場を採用すれば、採用したその瞬間に、棟梁を頂点とする小さなネズミ講が構成される。「大きいよりは小さいほうが良い」とする考え方もある一方で、同じ問題構造を再生産することには、根本的な違和感も生じる。「大工調べ」に立ち返ると、ここでは棟梁は与太郎を代弁していない。棟梁の啖呵に、与太郎の代弁は含まれていない。棟梁が立脚するのは、自分の怒りであり、自分の美学であり、自分の価値観である。棟梁は、与太郎の横に立ってはいるものの、与太郎本人の立つ場所を決して奪わない。ここに、「対象が自分から見て無能であることを理由に、対象を自らに依存させ、対象を支配する」というオリエンタリズムの問題を回避するための、決定的な要素があると思えてならない。

結:よだか総研のローカリズム

本レポートは、まず欺瞞的な巨大装置が持つ根本的な問題を指摘し、その上で巨大装置は被抑圧者を含む多くの人々の「信頼」によって支えられており、その構造はネズミ講と同様であると主張した。さらに、巨大装置を無力化する方法として被抑圧者の代弁を伴わない「欺瞞の暴露」を提案し、これは批判者自身の価値観や美学が基盤となることを説明した。この論理の延長線上に、よだか総研として模索しているローカリズムを、三つの角度から描写する。

一つは、自動黒字再循環装置のような巨大な規模ではなく、「より小さい範囲の循環圏・防衛圏を確立する」ことである。規模が小さければ小さいほど、プロトタイプもコントロールもフィードバックも潰すことも容易であり、当事者にとってより信頼できる。まず一人ひとりの循環圏・防衛圏に着目し、不足した部分をもう少し広範なレイヤーで構築することを繰り返す(補完性の原理)。これが、よだか総研が目指す「当事者による自治」の姿である。

また、「多様な美学や価値観を発見し、醸成する」ことも重要である。具体的には、例えば森のようちえんなどの自由な市民活動や、フランチャイズではない自己資本による自営業者、山岳信仰などの土着宗教、芸術や音楽には、巨大装置の欺瞞を暴きうる力が秘められている。方法論のコピー&ペーストを拒否し、代弁をせずに自らを主張することで初めて、依存と支配の関係性から脱出することができる。「よだかの学校」は、そのための議論と学び合いの場である。

最後は、「無限の需要からの脱出」である。産業革命によって生産活動が生存に必要な水準を大幅に上回った結果、価値の産出は希少性の捏造によって実現するようになった。我々は生きていければそれでよいはずなのに、実際は本来必要のないはずの需要が無限に喚起されている。無限の需要のために消費し、無限の需要のために生産する結果、労働時間が短くなることはないし、相対的貧困は生まれ続ける。健康を、無限の需要にしてはいけない。承認欲求を、無限の需要にしてはいけない。夢や未来を、無限の需要にしてはいけない。

「余剰・黒字の充実こそが権力を不動にする」というヤニス・バルファキスの指摘は当たっていると思う。ようするに、生産手段を買われ、需要を喚起された人々が、非植民地であり辺境であり奴隷なのだ。投資(生産手段の買収)と需要の喚起に使われた金の出どころは、有害なデリバティブであり、最後にその負債を支払ったのは、結局、奴隷自身だった。その状態(破産主義)に抗うローカリズムは、最初、地産地消のような小さな黒字の循環を試みるだろう。その次は、そもそも需要の喚起に抗うことを試みる。

無限の需要・希少性・相対的貧困を必要としない社会は、どのように可能なのかを考え続けたい。

special thanks > 早川氏・白崎氏