地域社会とナッジ 書評「入門・行動科学と公共政策」キャス・サンスティーン

ナッジやリバタリアン・パターナリズムで知られるキャス・サンスティーンの「入門・行動科学と公共政策」を読了したので、感想・反論を記載する。僕は、ローカル・シンクタンクや辺境の不動産業をやっている立場(認知バイアス)から、ようするにナッジ理論やそれを躊躇なく利用する人々を好まない。警戒している。ここでは、「なぜ警戒するのか?」を整理して記載する。

本書の定義によると、ナッジとは、「人々の選択の自由を完全に保ちつつ、その行動に影響を与えるための民間や公共機関による介入」とされる。詳しい作業仮説等は、本書をご確認いただきたい。以下、本書で述べられるナッジやその応用の理論について、批判・反論する。

1. ナッジがもたらす影響は、個人の選択の自由を保証しない

著者があげるほとんどの例で、最終的に個人の選択の自由は保証されない。なぜなら、本書は、イヴァン・イリイチの言う「支配的な道具」や、事実上の標準(デファクト・スタンダード)、ネットワーク外部性、市場の寡占化などを無視しているからだ。

たとえば、本書が例示するグリーンエネルギーの初期設定で、初期設定されないエネルギー(石炭発電など)を取り扱う事業者は、市場で著しく不利な立場になる。どのような産業でも、存続のために必要な最低限の顧客数がある。したがって、ナッジによる市場介入が長続きすれば、初期設定されないエネルギーの事業者はいなくなる。そうなれば、個人は、初期設定をオプト・アウトできない。

グリーンエネルギーのような露骨な例でなくても、検索エンジンの初期設定や、ファイル形式の外部性を考えれば、ある国家レベルのナッジが、実質的に個人の選択的自由を破壊することを、すぐイメージできるだろう。今更、一太郎の文書ファイルを他人に送付することなど、実質的に不可能だ。このような外部性の制約は、個人の選択の自由を許しているだろうか? もしくは、イリイチ的に言うなら、道路交通法で禁止されない馬車(軽車両)で通勤することは、いま普通の個人に可能だろうか? さらに場合によって、個人の選好は、競争的な消費や底辺への競争、軍事競争のような不毛な状況に巻き込まれる。これは一人の人間だけで回避するのは難しい。ナッジによって、ある選択を多くの人々が受け入れ、避けられない激しい競争が起こった時点で、オプト・アウトは実質的に不可能な場合もある(例えばランドセルの選好など)。ようするに、法令の制限や課税がされないからと言って、選択の自由が保証されるわけではないのだ。

たしかに、ナッジによる選択の自由の消失は、その他の私権の制限より穏当でゆっくり進むかもしれない。しかし、それゆえに有権者は油断しやすく、本書で書かれるように政治的分断を避けやすい。議論が起こりにくい措置だ。

ところが、ナッジは、その政治的お手軽さと比較して、恐ろしいほど選択の自由を保証しない。

2.ナッジは議論されにくい

ナッジは選択の自由を保障しない。その上、本書で著者自身が述べるように、国家的な「政治分断を避けることができる」のである。政治分断とは何だろう? ようするに公共政策決定の場において、議論が収束せず結論がでないことである。ナッジは、この国家の機能不全に対して、対処療法的な解決策を与える。一見して、「選択の自由を保証する」かのように見えるため、法令による制限や課税、緊急事態宣言などと比較して、議論されないまま可決される。

さらに言えば、公共政策に用いられるツール郡(WEBやDB、人工知能など)の初期設定やUI、学習データの決定において、今のところ、民主的手順で意思決定する機関による審議がされない可能性がある。ナッジは、官僚や専門家の一任によって自由に決定されるのに、極めて大きな効果があり、粘着的で継続的に影響を与え続けることがある。

しかし繰り返すが、この議論の回避にも関わらず、「支配的な道具」や、デファクトスタンダード・ネットワーク外部性・市場の寡占化などを考慮すると、ナッジは、個人の選択の自由を保証しない。

僕は、政治的な分断や国家の機能不全を理由に、ナッジを正当化すべきでないと考える。国家の機能不全は、サンデルらのコミュニタリアニズムの視点からみると、妥当な結果だ。この問題への処方箋は、高度化した公共に対して、合意が取れる倫理の共有を再構築することである。そしてその合意は、より広い範囲(グローバル)に向かうとは到底思えない。狭い範囲で高度な公共政策にたいして合意を取り戻す(分断を克服する)対話へと向かうだろう。ようするに、緊急時に合意が取れないからといって、テクノクラートがナッジして良いとはならない。

3.ナッジは透明性を保証できない

著者は、ナッジへの懐疑について「何も隠されてはならず、すべて透明であるべき(p125)」と応答する。しかし歴史上、僕らは、ナッジに限らず、より私権を制限する立法・行政においてさえ、そのような透明性を保証する国家や政体を、持ったことがあるだろうか? また、このような根源的な不信を表明しなくても、ナッジが企画される場面で、透明性を保証できないケースをいくらでも挙げることができる。そして、多くの場合、緊急を要すれば、統治者や官僚システムは、簡単に透明性を投げ捨てるだろう。統治者のモラルなど、その程度のものだ。

たとえば、国防を巡る問題について、国民をある防衛行動にナッジするケースで、ナッジの理由は、部分的にしか公開・説明されない。国防や軍事に関わる政治的議論は、いつもお決まりのように非対称である。政府は、措置の意図や内容を、軍事上の機密を理由に公表しない。そして野党や市民は、情報不足から、どのような反論をしても「軍事的リアリティを知らない」としてパターナリズムの下に置かれる。

ようするに、機密が設定される重要な政治的決定において、「十分に情報を得る」事や「自分自身の幸福を最もよく判断できる者」とみなされる事は、不可能なのである。つまるところ、軍人や一部の「本当の危機を知っている」統治者以外は、いつだって「軍事的リアリティを知らない」素人だ。しかし、公開されない情報をどうやって知ることができるのだろう?

あるいは、医療のパターナリズムにおいても、「何も隠されてはならず、すべて透明であるべき(p125)」は安々と破られる。つい最近まで、患者は、自分自身の癌ですら告知されず「自分自身の幸福を最もよく判断できる者」と見なされなかった業界である。この社会的エートスのなかで、どうやって「何も隠されてはならず、すべて透明であるべき」を実装するのだ?

さらに踏み込んでいえば、著者が期待する特個人化されたナッジや初期設定も、透明性を保証するのは相当に難しい。例えば、ホワイトボックス型のAIで、それらを実装するとして、数万件の学習データセットや学習アルゴリズムを公開したとして、現状では殆どの人間が理解できない。それを理解できると仮定するならば、そもそも選好の全選択肢を理解したほうが早いのではないか? ナッジの誘導を単に公開する事と、他者を「判断できる者」として尊重することには大きな隔たりがある。

むしろ穿った見方として、多くのナッジ支持者は、そもそも議論を避ける傾向がある。結局、ナッジの支持者(一部の機械学習の専門家たち)は、ナッジの誘導について、ホワイトボックス型のAIが、実質的に多くの人々にとってブラック・ボックスになることを望んでいるのではないだろうか?

さらに透明性・情報公開と、その不可読性・不可能性の極限が、データ資本の独占である。もしナッジに関して、本書の135ページの作業仮説「十分に情報を得ており」が、グローバルなネット上の全情報を閲覧した後の計算結果を意味するなら、僕らはどうすれば「可能な人」になれるのだろう? そのような読み取りと理解が、生体の個人に可能になるだろうか?

おそらくナッジの特個人化は、ネットの全情報の計算結果予測に収束し、その結果をもっとも僕の厚生を向上させる選好として提示するだろう。それに対し、僕が、計算の透明性を請求するとすれば、現状は独占されたデータ資本の共有を請求することになる。(つまり検算をして、計算結果が一致することを確認する) 僕は、データ資本の共有が、現実的に政治的分断をさけて合意可能とはとても思えない。データ資本が公共財になることはあり得ないと悲観している。したがって結局、「何も隠されてはならず、すべて透明であるべき」は、ただのスローガンとして実現されず、ナッジは、国家的で悪質なダークパターンに堕すのだろう。

4.やっぱりナッジは悪用される、されてきた

ようするにナッジは、大概、選択の自由を保証せず、議論もされず、透明でもないのだ。だから最終的に、僕の厚生を改善しないし、国家的な詐欺に活用されるだけだろう。

いや。もう数世紀前から、悪質なナッジは多用されてきたよね?

なんで、空き家バンクの事業者は宅建業協会員がデフォルトなんだろう?

なんで、協会に入ると同時に、政治連盟(自民党)の加入届が同封されるのだろう?

運転免許更新の出口に、交通安全協会の加入窓口があるのはなぜ?

どうして、行政のタウンミーティングに地域企業の人々が、強制でなく動員されるの?

自治会の会費と同時に、赤い羽根募金が来るのはどうして?

別に「ナッジ」なんて言わなくても、強制でない誘導は、特に珍しくもなくクソみたいに転がっている。本書で理想的に描かれるナッジとの違いは、「個人(他人)の厚生の向上」とかいう白々しいスローガンを言わない程度だ。現場の悪質なナッジは、清々しいほどに、統治者や組織の都合だけを考え、その都合に人々を誘導する。単なるマーケティングや営業であることが殆どだ。たしかにオプト・アウトは可能である。でも、判断しないアホほどよくカモにされる。そして油断している間に、オプト・アウト不能になる。

この苦言に対して、「個人の厚生を向上する手段パターナリズムのナッジもあるはずだ!」と反論する人もいるだろう。要するに、高度に文明化した僕らの社会は、余りにも複雑すぎて、「十分に情報を得て、かつ、さまざまな行動バイアスから逃れている」状態を維持するのが難しい、という主張である。

僕は、現実社会に蔓延るこの主張に対しても、拭い難い大きな不信を感じている。つまり、僕から見ると、殆どの場合、ナッジとスラッジ(個人の厚生を悪化させる誘導)は区別がついておらず、スラッジを潰すための専門的な仕事がナッジになっているように見える。

たとえば、生活保護やある種の公的支援は、(誰がどう見ても、絶対に)「利用しにくい」ように設計されている(スラッジ)。そして、弁護士や行政書士の資格を持たないNPO等の支援団体は、困難に直面する人々のために、スラッジを克服するためのナッジを仕掛けているのである。より直接の例を挙げよう。貧困への生活保護の支給は、絶対に受給を困難にする方向にスラッジされている。そして当事者支援する人々は、スラッジを回避する方向に相談や伴走(ナッジ)するのである。アホなのだろうか? 

ようするに、この場面では、軍拡競争のような「底辺への競争」があり、デービット・グレーバー的なブルシット・ジョブを引き起こす悲喜劇が繰り返されているように見える。

本質的に、個人にとって「十分に情報を得て、かつ、さまざまな行動バイアスから逃れている」状態を維持する事が難しいという推論は誤解では? そうではなく、ナッジ/スラッジを駆使して他人を操作する人々によって、社会が無意味に複雑になっているだけなのでは?

なぜなら、十分に情報を知りえないほど複雑な方が、ナッジ/スラッジの人々は儲かるからだ。彼らは、別に「他者の厚生」のために論理を振り回しているのではないのだ。

なぜ、ナッジ/スラッジの人々は、「他者の厚生」などに興味はないのに、それを支持し、推進し、熱狂するのか? 理由は簡単だ。単に、政商につなげやすいからだ。

本書にあるグリーンエネルギーの例では、グリーンエネルギーを推進する産業の人々は熱狂するだろう。あらゆる公的サービスも、「新しい公共(NPM)」の世界観では、結局、民間の営利企業である。その市場的な人々は、国家レベルの初期設定に、自らのサービスが指定されるのであれば、当然、その初期設定を支持するだろう。そして、繰り返すが、その決定において、「政治的分断」は回避され、議論されず、最終的には個人の選択は保証されない。(僕はグリーンエネルギーを好むが、それと同意しない自由の喪失は関係がない)

5.行動科学者、政策決定者自身がバイアスの内側にいる

ここまで述べると、おそらく僕の論に対して、「反知性的である」とか「行動科学の知見を理解していない」等と反論されるだろう。そここそが、正に僕が心底議論したい点である。

確かに行動科学は、多くの場合で「人間が合理的な存在とは言えない」という正当な根拠を突きつける。僕らは、多くのバイアスに囲まれて世界を認識し、僕自身にとって正しい選好などできない愚か者なのだ。僕はこれに同意する。

しかし、そのような実験を行う行動科学者や政策決定者は、認知バイアスと無縁で、純粋で合理的な、生の世界をそのまま認識できるのだろうか? 僕にはとても信じられない。

おそらくナッジの初期設定や、サービス・リストの順序を決めるとき、お仲間からの露骨な接待や陳情が待ち受けているだろう。あるいは、学会での立場や師弟関係、暗黙知の次元、研究者たちのネットワークの中で、合理的な判断や意思決定を行うだろう。

そんな人々が、どうやって、他人の厚生について、認知バイアスから自由に正しい介入を行えるのだろう? そして、その認知バイアスにより「人間(政策決定者)が合理的な存在とは言えない」場合、ナッジを用いない場合の影響よりも、はるかに多くの他人を、誤りに巻き込むのである。少なくとも本書を読む限り、著者が、彼自身、極めて歪んだバイアスによって世界を眺めているという躊躇いを持っているとは思えない。また、多くの普通の人々にとって、権威的な人間の認知バイアスの誤りを正すことは、非常に困難だろう。(僕が、近所の事象について、ハーバード大学の教授が「間違っている」と指摘するのは、困難だ)

誤ったナッジが実施され、劣悪なネットワーク外部性やデファクト・スタンダードが形成された後、権威ある人が行ったナッジからオプト・アウトしたり、訂正したりするのは大変な作業である。これは、法令を訂正するのと同程度の難しさがある。にもかかわらず、ナッジは議論されない。

6. そもそもバイアスとな何か? 歪みのない1つの世界は存在するのか?

本書では、さまざまな意味で「バイアス」という言葉が使われる。その定義は書かれておらず、詳しい哲学的な議論も避けられている(作業仮説、完全に論理化されない合意)ので意味するところがハッキリしない。

僕が何かを選考する時、「行動バイアスから十分に逃れている」状態というのは、明示できるのだろうか? 僕は、これを明示できると考えないし、それなのに、他人の行動科学が「あなたの選好には行動バイアスがあった」と決めつける事を非常に不愉快に感じるし、信用できない。

例えば、選好の前後に時間をおいてアンケートを取り、効用(満足度)を測ったならば、たしかに、事前に「行動バイアスがあった」という判定になるだろう。

しかし、その差分を「バイアス」などと呼んでも良いのだろうか? その過程こそが、学習であり、終わりのない認知なのではないだろうか? つまるところ、歪みのない真の世界があるわけではなく、ゆがみのない認知があるわけでもなく、僕と世界の関係は、終わりのないインター・アクションによって変化し続けているのではないのか?

もし、「バイアス」という概念が、外部の観察者を召喚する方便に過ぎなくて、実際に生きている人々は、その個人と外部との関係を続けているだけなのだとすれば、ある時点や状況を切り取って、その差分をバイアスだと決めつける態度は、単に「私は、あなたとは同じ世界に存在しない」という、ありもしない立場の表明なのではないだろうか?

僕は、根本的に、他人の認識過程の変化について、その関係の外側にいるかのように振るまって、客観性・外部性を捏造し、「バイアス」と決めつける、この種類の関係性を嫌悪している。(それがナッジと呼ばれるか、パターナリズムと呼ばれるか、オリエンタリズムと呼ばれるか、植民地主義と呼ばれるかは、この際、どうでもいい)

観察者と被験者を簡単に区別してしまう発想に、どうしようもない、根本的な誤りを感じる。ナッジするものとされるものを分けて考えて、ナッジする人の誤りには責任を問わず、ナッジされる人の行動を「非合理だ」と決めつける関係性に辟易している。

7.世界を改善してきたのは誰か?

ここまでのような批判を展開すると、国家的あるいは国際的な問題解決に熱を上げる統治者や献策者は当惑する。「この政治的分断のさなかに、緊急を迫られる諸問題に対して、我々がナッジをしないで、どうやって人々の厚生を守るのか?」などなど。

おまけに、「安直な体制批判ばかりでは、世の中はより良くならない」などと批判される。

ごもっとも。

確かに世界の寿命は延び、飢餓は解消されている。男女の平等は進み、民主的な政体は増えているだろう。世界は確実に、統計的、ファクトフルネスに改善されているように見える。

ところが一方で、富の所有は不均衡になり、多くの人々は、市場をベースにした意思決定に参加できなくなり、そしてまた、資本による強烈なロビー活動によって、民主的な議会は買収されてもいる。

結局、この現状がもっとも多くの人々の厚生を良くし、パレート改善を進める最適なシステムなのだろうか? 今現在の、「良い世界」に貢献してきたのは誰なのだろう?

ようするに、一部の専門家と政治家、その取り巻きの業界団体だけが、大して議論もせず(政治的分断を避け)、実質的に回避できないナッジを繰り返し、人々を操作することで、現状の「良い世界」が構築されたのだろうか?

僕は、残念ながら、そう思わない。そして歴史は、決してそうでないと教えてくれる。

貴族の囲い込みによる不当な搾取(封建制)を、貴族が自ら放棄するわけがない。貴族が特権を失い、平等や公平がちょっとマシになったのは、農奴やブルジョアによる猛烈な不満と闘争が発生したからだ。労働者の生活水準(厚生)が、若干にでも改善したのは、猛烈な労働闘争や暴動が起こったからである。ようするに資本家は、暴動を制圧するよりも、妥協案を示したほうが安上りだった。暴動なくして改善などあり得ない。異議申し立てや暴力は、否定しえない。資本家が、自らの意思で専門家を雇い、議論なしに労働者の厚生を改善するナッジを実施することなどありえない。

今、既にある程度社会のエートスになった男女の平等のために、怒れるフェミニストの継続的な、涙ぐましい異議申し立てが、絶対に必要だった。抑圧者が、自ら差別に気が付いて、議論もなく自主的に、人々を差別を解消する行動にナッジするなど、絶対にありえない。

ようするに、現状の「良い世界」を作り、世界を改善してきたのは、困難に直面する当事者自身の怒りや悲しみの異議申し立てであり、そこで巻き起こる政治的分断(激論、議論、対話、話し合い、合意)なのである。上から目線の専門家が、ツールとして改善の手段を提供したことはあっただろう。しかしながら、それは単なる手段であって、より良くする意思が、支配者や統治者、そこに侍る専門家から自動的に生まれるなどということは、歴史的に絶無なのである。

そういう意味で、人々の厚生のために私権を制限しようとする法令や課税などと比べて、ナッジはより邪悪であり、欺瞞に満ち溢れている。政治的分断(激論、議論、対話、話し合い、合意)を避けようとする姿勢は、「他者のために他者の厚生を改善する」という白々しく崇高な目的と一致することは、絶対にありえない。人類は、遠くの他人の厚生になど興味を持たない。

グリーンエネルギーをナッジするナッジの支持者は、単に自分の近所の環境を守るのか、あるいは新産業でひと稼ぎしたいだけなのである。別に僕は、その極めて近視眼的で利己的な動機を否定しない。ただその上で、政治的分断を望むだけだ。アンタがナッジする人で、僕らがナッジされる人などという非対称の状況を、議論も透明性も確保されないまま、詐欺的に看過されることを拒否する。

もし、ナッジやその他の公共的な政策が、政治的な分断によって可決されず、世界が改善されないとしても、それは、専門家の専制を正当化しない。

もし分断が解決されないのならば、人間にとって、そのような巨大な共同体は不可能なのだと考えたほうが良い。国家レベルで倫理を共有できない人々が、どうやって国際的な倫理を広範囲で共有するのだろうか? 僕の近所のおばあちゃんに、国際的なナッジの内実を英語で理解しろと? 無理な相談だ。そんな政策提案は、分断がすでに予約されている。

確かに、炭素の排出や海洋汚染など、どうしても国際的な合意が必要な場面がある。しかし、そのような合意や統合の範囲を意図して増やすことに、僕は反対だ。

その巨大な統合のなかで、合意不可能の諸問題に対して、まったく知らないところで、ナッジが濫用されることを、つよく非難する。

8.  どのようなパターナリズムならば許容できるのか?

ここまでのような理由で、僕は、パターナリズムや、リバタリアン・パターナリズム、ナッジなどの考え方を拒否する。

しかし、現実的には、ある種のパターナリズムを避けることは大変難しい。子どもは完全に一人で育つことはできないし、高齢者を介護する必要もある。医者と患者が同程度の医療知識を持つことは難しいだろうし、ある種のソフトウェアやWEBサービスには、初期設定やUIを設計せざるを得ない。ある事象を他人に伝えるとき、言葉を選ばざる得ないだろうし、専門用語を使用しないで複雑な事象を表現することは、たぶん出来ないだろう。

だから、僕が考えたいことは、「僕は」どの程度までのパターナリズムなら許容できるのか?ということだ。

僕は、ともかく、自分を含めて多くの人間の認知能力や道徳、倫理をかなり低く、野蛮に見積もっている。僕が著しくバカなだけかもしれないが、僕は大学院まで進み、企業の研究機関で研究者として勤務した経験もあるのに、他者の考え方がさっぱりわからない。アメリカ人が「厚生」といって意味することを正しく理解できないし、インド人の多言語社会観を想像もできない。女性が生理で苦しんでいる過程を本当に分からない。

そして、このような他者への理解の欠如は、対して珍しくもなく、殆どの世界の人々の間に、ごく自然に蔓延っている日常だと考えている。

この人間観・社会観(認知バイアス)に対して、政治的にアクティブな行動科学者は、「だからこそ、実験によってエビデンスを求めるのだ!」と豪語するだろう。しかし、僕は、そのような実験の枠組みや根底、方法論、文化の基盤、文明、宗教こそが認知バイアスだと考えている。ようするに僕は、行動科学のエビデンスは宇宙人の行動を地球人のフレームワークで説明しただけであって、人間を超える高度な知性をもった宇宙人が「本当は何を考えているのか?」をさっぱり説明していない、と思っている。つまるところ僕にとって、僕らの世界は、お互いに理解する知性を備えない多様な宇宙人たちの集団なのである。

また僕は、この地球を闊歩する僕を含む多様な宇宙人たちを、カントが悪魔に例えたように、基本的には利己的で傲慢で愚かだと考えている。この洞察は行動科学者と同じである。ただ、行動科学者と僕が異なるのは、「行動科学者自身も、利己的で傲慢で愚かな宇宙人である」と考えている所だ。だから、僕は、ナッジを支持する人々が白々しく「他人の厚生を改善する」なんていうとき、ほとんどそれを信じていないし、僕はそのような白々しい発言を絶対にしない。

このように書くと、「愚かな反知性的、孤立主義だ」とか「独我論だ」とか言われる。しかし、僕は孤独ではない。ようするに僕の認知バイアスから見える「人間」は、昔からの伝統通りに、利己的で傲慢で愚かだが、基本的に情に流されやすく、目の前の困っている他者を助けてしまうのである。そして僕は、この他者への介入と救済が、崇高な倫理やパレート最適にしたがっていないと、確信している。

たぶん、動物としての人間は、単純に情によって他者を見捨てるのが難しいだけなのだ。

僕は、このような狭い範囲(目に見える、手の届く範囲)で、支援者本人ですら避けて通ることができないケアの範疇においてのみ、渋々とパターナリズムの実行を認める。基本的に、他者の悲劇は放置すればよいのだが、目撃して「放置出来ない」場合がありうる。
(国家や国際的なレベルでナッジしたい奴らは、単にシェアを伸ばしたいだけだ)
そして、そのような狭い範囲(親密圏)で、具体的なナッジや法令などの私権を誘導したり制限したりする実効力のある政体を育みたい。政治的な分断を克服できる程度に、倫理や文化を共有できる地理的・言語的・人間関係的に近しい範囲で、正しく議論するのである。この小さい範囲の共同体は多くの場合、地域的な繋がりになるだろうが、必ずしも特定の地理に依存しなくてもよい。たとえば、サイバースペースでの小さな共同体は、1つの分断を乗り越える政体になりえるだろう。国家的・国際的な政治の分断は、すなわち民主的な議論の終焉ではないのだ。人間の知性に相応しいサイズの議論の場が無数に想像しえるだろう。

もちろん、このような地域的な小さい共同体の単体によって、国際的な底辺への競争が解決可能だとは考えない。しかし、国家間で合意した排出権等の制限を、小さな共同体同士の議論によって民主的に双務的に目標を合意することは、全体を1つの国家と考えて手段やナッジにおよぶ合意を取るよりも簡単だと考える。国際的に割り当てられた義務や制限を、小さな共同体のなかで、どう解決するか議論すればよい。そこでは、専制的な専門家による議論を経ない欺瞞的なナッジは回避できる。

要約すると、僕は、リバタリアン・パターナリズムに、さらなる適応範囲の制限を加えることを望む。その制限とは、親権的リバタリアン・パターナリズム、氏族的リバタリアン・パターナリズム、地域的リバタリアン・パターナリズムと言えるだろう。地域にサイバースペースの小さなクラスターを含むと考える。僕は、これらの範囲に、厳しい制限がかかっている限り、現実の自らの同情心に負けて、渋々ながらパターナリズムによる介入を認める。そして、それ以上の遠い範囲から、国家レベルや国際レベルで、当事者と何の当事者性を共有しない人が、他者にたいして介入をすることを原則的に反対する。

9.共同体を守るために

ナッジを正当化する文脈には、それなりに妥当性がある。要するに国家・国際レベルで、私権を制限するための議論を行い、合意することが難しいのだ。しかも、環境問題など、大規模な集団行為において、解決すべき問題が噴出している。だから、心ある統治者は、「完全に論理化されていない合意」であっても「作業仮説」を用いて、前進するしかないのかもしれない。

しかし、それでも僕は、そうした心ある統治者のナッジのシステムを信用しないし、心ある統治者が死んだあと、結局、どうしようもない統治者によってナッジ・システムが悪用され、多くの生活者の行動科学的非合理な行動よりも、もっと破滅的な範囲で、少数の統治者が非合理的な行動を行い、悲劇が訪れると確信している。何しろ、今でも、多くの統治者は、戦争という行動科学的に非合理的な命令を実行しているのだ。その状況で、どんなヒーローを信用しろというのだ?

だから、僕は、ナッジやリバタリアン・パターナリズムという危険に満ちた対処療法をできるだけ用いないで、高度化した社会の中で、不足する人間の知性に相応しい範囲や簡潔さに収まった共同体と、そのなかで共有される倫理観や文化を取り戻すことを望む。

もちろん、この展望は、すぐに現実的とは言えないだろう。昔から、ピエール・ クラストル流に社会や共同体、氏族社会は、国家(暴力装置を独占する政体)に対抗してきた。そして今や、国家ですらその主権を脅かされており、より巨大でグローバルな暴力装置を独占する政体が求められているように思える。

そのような巨大な政体のなかで、もはや僕らは、ナッジに誘導されて生きる以外の主体性や尊厳を持ちえないのかもしれない。しかし、それでも、僕らの反省は、それなりに進んでいるように思える。

小さな共同体よりも、国家が優先され、国家よりも国際的な政体が優先されるのは、ロバート・ノージックの「最小国家の見えざる手説明」によれば、当然のように思える。ノージックは、国家が必然的に成立する過程を描いて見せたが、この過程が、「国家」で止まるという説明はない。現在、個別国家には、複数の保護協会(軍事同盟)の選択があり、結局、国家同士の紛争は、保護協会同士の紛争に発展する。そして最終的に、不毛な軍事費の拠出を制限するため、国家の国家(グローバルに暴力装置を独占する唯一の政体)に収束するように思える。

そう。ようするに小さな共同体を守るためには、軍事における「底辺への競争」を解決する必要がある。ナッジが必要とされるのは、巨大な超国家が必要とされ、政治的な分断が必然となるからである。そして、巨大な超国家が必要となるのは、「底辺への競争」があるからだ。

僕らは、自らの安全のため武装し、その不毛な武装ゲームを終了させるため、巨大な国家を作ったのだ。そのなかで僕らは、合意すべき共通の倫理体系を持たないため、弱者を助けたり、障がい者を保護するために(保護されるために)私権を制限する法律を作ることができない。

だとすれば、大きな世界大戦を経て、冷戦を終えた僕らは、なんとか軍縮という双務的な契約に合意することはできないだろうか? それは空想的なのだろうか?

確かに、集団の厚生において、弱者のためにある制限を決める事は、再配分の要素があり、極めて合意し難いだろう。

一方で、好き好んで軍事費を積み上げる国家は殆どないと思える。軍事産業にどっぷり浸る人々の「リアリズム」を無視すれば、日常の平和な世界に過ごす、強欲で愚かな大半の人々にとって、軍事費の高騰は不毛で無益で、効用をもたない。

もし国際的なレベルで、この「底辺への競争」を制限できたならば、残りの問題の殆どは、共同体の中で熟議により合意できるのではないだろうか?

この手の発想は、かなり理想主義的なのは良く分かっている。しかし、そのような理想を全く持たず、専門家や統治者以外に公開されない情報による「軍事リアリズム」を信じ、それによる外交と国防を白紙委任しながら、国家や国際的機関による暴力の独占を認め、その結果起こる、巨大な議論と同意形成の困難さを棚に上げて、議論によらない誘導を再生産するのは、馬鹿げているのではないだろうか?

少なくとも、「十分に情報を持っておらず、行動バイアスから自由でない」状態で、軍事リアリズムを惰性で許してはいけないと思う。そして、「より大きなもの」への保護申請を連発する人々(ナッジ/スラッジの人々)を尊敬しないほうがよいと思う。

大事なのは、ある地域や個人間の紛争を、出来る限り小さな範囲で調停することだ。私的な紛争に代理組織を使うことを、それこそナッジによって抑制すべきなのだ。小さなケンカを恐れてはいけない。小さな紛争は繰り返し、お互いに解決しなければならない。

永久に紛争が発生しない上位機関の上位機関では、最終的に民主主義が成立しえない。

ナッジへの熱い期待が、反面教師としてそれを証明している。繰り返すが、この合意の不可能性への正しい対処は、専門家への実質的な白紙委任(ナッジ)ではない。合意に耐えうる、ある種の倫理や価値観を共有する当事者たちによる自治なのである。

(文責 中原)