よだか総研から見た「ひとり親家庭における子どもの権利」問題について

2021年7月11日(日)に開催したよだかの学校・イエから脱出するゼミに、よだか総研メンバーが参加した。ゼミでの議論を踏まえて、「ひとり親家庭における子どもの権利」に関して、よだか総研はどのように向き合うべきかを整理した。

1. 統治する側の視座

 ひとり親家庭における子どもの権利の問題を論じるにあたり、まずは官僚・行政官・首長などの「統治する側」の視座を確認する。統治する側にとって最大の脅威は、統治の正統性が脅かされることだ。民主主義制度の中で民衆のひとりひとりが本来持っている権力に比べれば、統治者の座も、統治者が携わる政策や業務の内容も、一時的・限定的なものにすぎない。統治者が自分たちの座により長く座り続けるために、また自分たちの政策や業務に対して当事者からの横槍を入れらないためには、民衆に比べて、統治者の方に正統性があることを証明しつづけることが必要である。

 統治者が、自身の正統性を証明するために、最も効果的な手法は何か。それは、「民衆をバラバラにする」ことである。100人の当事者が統治者のもとに抗議に来たら、ある程度まともに向き合わざるを得ないが、1人の当事者が来たところで「クレーマー」として処理されて終わる。統治者の仕事は、既存の政治的ルールに基づいて民衆を統治し、民衆が既存のルール内でのみ行動するように促すことである。民衆自身が政治的ルールを更新する方法や、民衆が統治者を交代させる方法、統治者の欺瞞を暴く方法を、統治者が民衆に対して懇切丁寧に教えてくれるといった事はありえない。民衆が本来持っている力に気付かないように、民衆をバラバラにし続けることは、統治者にとって重要な戦略である。

 統治者の中でも特に行政官の場合、この分断戦略を無意識に採用することと、その人物の人間性や誠実さ、良い人かそれとも悪い人かは、まったく関係がない。その理由は、行政官の立場に求められる誠実さは「法令や制度に対して忠実に従う」ことであって、「法令や制度を疑う」ことではないからである。もしも行政官が既存の法令や制度をひとつひとつ熱心に疑っていたら、彼らの日常的な業務が遅々として進まなくなってしまう。法令や制度を疑うのは、統治以外の視座に立つ人々の役割であって、統治の視座に立つ人々の役割ではない。実際、行政官のほとんどは「良い人」であり、職業的な誠実さを持っていると思う。彼らが真摯に、自分の業務を全力で遂行した結果として、統治者の正統性は強化され、また民衆や当事者は分断されていく。よだか総研は、当事者による自治を発見し醸成するための活動を行う組織である。よだか総研は、当事者による自治を実現することと、統治する側に立つ人々の個人の倫理観や誠実さを問うことは、ほとんど関連がない、と考えている。

 統治者以外にも、民衆がバラバラであることを望む人々はいる。例えば、弁護士はその一例である。法律に触れない個人間の紛争(民事事件)の場合、民衆が自分たち自身による議論や交渉によって紛争を解決できれば、弁護士の出る幕はなく、売上にもならない。当事者同士による問題解決に期待することは、紛争解決の代理人としての弁護士のビジネスモデルと相反する。同様に、サービス産業を主とする様々なビジネスモデルにおいて、民衆がバラバラであることは、極めてメリットが大きい。例えば、子どものお弁当を作る時間がない母親に、お弁当を売る。老人の介護を家族や地域で見るかわりに、グループホームに入れる。暮らしの中に経済(市場)が占める領域が拡大していくことは、GDPや納税額の増加をもたらし、統治者にとっての「正統性を証明したい」という関心とも一致する。こうして、「民衆をバラバラにしたい」という統治者の動機は、「金さえあれば何でもできる。バラバラになったほうが自由だ」という言説に洗練されて、民衆の脳裏を占めている。次章では、この言説に対して、ひとり親家庭の位置付けを再定位する。

2. ひとり親家庭の再定位

 比較認知科学・人類学・発達心理学などの分野では、ヒトは本来、親だけでなく、他の大人と共同で子育てしながら、生存してきたことが発見されている。親以外の個体による子どもの世話はアロマザリングともよばれ、現代でも特定の地域において、あるいは特定のコミュニティにおいて、文化として定着し継承されている。もちろん、より私的な実践としての小さな規模でのアロマザリングも可能であるし、それは私たちの地域にも実在する。

 日本では、戦後に都市部へ人口が集中し、これまで共同体でなされていた多くの営みがバラバラにされ、個人化・市場化された結果、需要が創造され、高度経済成長が生まれた。子育ても個人化され、親と子だけのイエ(核家族)で行われることが一般的だという認識が定着した。高度経済成長が終わり、誰もが同じような豊かさを実感できなくなった中、「金さえあれば何でもできる。バラバラになったほうが自由だ」という言説が登場し、さらなる暮らしの市場化を進めようとしている。このような視点から、ひとり親家庭を表現すると、「バラバラにされた子育ての最小単位」として定位される。

 このとき、ひとり親家庭の子どもの権利を保障するために、わたしたちはどのような姿勢で臨むべきなのだろうか。一つだけ確定しているのは、「金さえあれば何でもできる。金さえあれば自由や権利が保障される。だから金をくれ」という認識や言説や姿勢は、さらに我々をバラバラにするだろう、ということだ。わたしたちには金も必要だが、それは目的ではなく、目的を達成するための手段のうちの一つにすぎない。わたしたちの自由や権利は、金だけでは実現しない。もし金だけで実現する自由や権利があるように考えているとしたら、それは市場への依存や、統治への依存を生むために、あなた以外の誰かによって植え付けられた認識が原因である。

 例えば「今後は老後の生活資金に2000万円が必要だ」という言説があった。これは2019年に金融庁が発行したある報告書に由来している。しかし、同じ報告書の別のページには、高齢夫婦無職世帯の平均純貯蓄額が2484万円あると記載されている。つまり、今の高齢者が単純に「彼らが持っている分の」お金を使っていることを根拠に、今後の高齢者にも同程度が必要だと主張したのだ。普通に考えれば、どう考えても間違った主張である。しかし、こうした欺瞞的な言説は簡単に捏造することができるし、民衆の思考や行動を簡単に支配できる。「子育てに○○円が必要だ」という言説も、同様の欺瞞とトリックを必ず含んでいる。こういう言説を真に受けるのは、時間と体力の無駄だ。自分の暮らしに必要な金額は自分で考えればいいし、生活の方法を変えれば必要な金額も変わる。

 ここまで記した状況を乗り越えるために、ひとり親家庭の採用すべき戦略は、単純だ。わたしたちをバラバラにして搾取しようとする支配の力に対抗し、また支配から逃れるための、力と認識を獲得することである。歴史上、抑圧される側の立場の人々は、新たな連帯や共同体を構築し、さまざまな力と考え方を活用することで、支配の力から逃れてきた。しかし、この戦略は単純ではあるが、簡単ではない。次章では、今日のひとり親家庭が直面するであろう批判を想定し、それを乗り越える方法を考える。

3. 批判を乗り越える

 被抑圧者が立ち上がろうとするとき、そこには様々な批判が向けられる。ひとり親家庭が直面するであろう批判を想定すると、そのほとんどが「自己責任」という単語に集約される。以下がその具体例だ。

  • (離婚による一人親家庭に対して)そもそも結婚相手を自分で選んでいるのだから、安易に離婚するなどと考えてはならない。それでも離婚したのだから、それ以降の生活がいくら困難だとしても、それは自己責任である。
  • 家庭の問題は家庭内で解決すべきであり、いかに生活が大変だったとしても、それは自己責任である。
  • 収入が高いひとり親もいるのだから、収入が低いひとり親が困っているとしても、それは自己責任である。
  • などなど

 しかし、こういった批判は全て的外れなので、無視するか、反論すべきであり、批判を受けた側が真に受ける必要は一切無い。自己責任論は、その根拠を、「選択の自由」に依拠している。あなたには選択の自由があったので、そこで選択した結果についてあなたは無限の責任を負うべきだ、という理屈である。しかし、「選択の自由」という概念そのものが、そもそも幻想である。無限に存在する選択肢すべてを(その組み合わせも含めて)比較検討することや、一つ一つの選択肢が後に与える影響のすべてを比較検討することは、人間にもコンピューターにも不可能だ。あなたには選択する権利があったかもしれないが、それは必ずしも自由を意味しない。したがって、自己責任論はその前提から崩れ落ちる。

 さらに、家庭に関する問題の場合、日本の社会制度や文化に深く組み込まれている儒教的な規範意識も、わたしたちの自由を制限する。結婚は過度にポジティブなものとして考えられていて、結婚することの潜在的なリスクについてはほとんど意識されない。また例えば、「まともな大人なら結婚すべき」「男性は苗字を変えずイエの姓を守るべき」「子どもは母親が育てるべき」「家庭には両親がいるべき」といった言説も一般的である。一つ一つ反論しているときりがないので省略するが、結婚や離婚や再婚に関して、わたしたちが本当に「自由に」選択できることなど、実はほとんど存在しないのかもしれない。

 自己責任論に基づく批判を、当事者であるひとり親自身が内面化してしまうことも、よくあることだろうと思う。「自分に非がある、自分が悪い、自分の努力が不足している」という認識は、つつましく、謙虚で、健気に見える。しかし、その認識こそが、自らが「社会に何らの影響力も及ぼさない、バラバラにされた当事者」であることを、最も端的に証明している。実際は、当事者は、連帯やコミュニティ形成によって、社会に大きな影響力を与えることができる。つつましさや謙虚さや健気さは、民衆同士・当事者同士の中での美徳であって、民衆の側と統治する側との間での美徳ではない。次章では、ここまでの認識論をベースに展開できる、具体的な戦略を提案する。

4. 当事者の自治を実現する

 当事者の自治を実現するにあたり、当事者を中心とした連帯やコミュニティ形成は、それ自体が当事者にとって重要な価値を持つ空間(=目的)になることもあれば、さらに高度な目的を達成するための手段となることもある。当事者を中心としたコミュニティがあれば、他者の認識に影響を与えることもできるし、自主的な事業や活動を充実することもできる。

 さらに重要なのは、当事者の求める政策を通すことが可能になる点である。政策が実現すれば、行政官が持つ職業的誠実さが、当事者の自治を拡大するための大きな助けになる。政策上での対抗運動を避けて通ろうとすれば、統治は私たちを無視するか、私たちをより一層バラバラに解体する。統治する側にとって無視できない当事者の連帯やコミュニティを作ることで、統治する側に対して影響力を与えることは、普通選挙が機能するための前提条件でもあり、民主主義が正常に作動するために当然行われるべきことである。

 連帯やコミュニティはこんなにも必要なのに、なぜ十分に存在しないのだろうか。それは、ぼくら民衆が、長い時間をかけて、地域社会・宗教共同体・親族などの「しがらみだらけの息苦しい連帯」を捨てて、統治(行政サービス)と市場のほうを選んできたからである。連帯は資本に対抗する伝統的な手段の1つであり、「息苦しい連帯」の最たるものが、イエだ。そして、連帯を全部捨てたら貧困に陥ってしまうという現象は、考えてみれば当然のことなのかもしれない。

 しがらみのない自由な連帯やコミュニティは、存在しない。しがらみは、苦しい。しかし、連帯やコミュニティの方法や相手、しがらみの内容は、選択したり、デザインしたり、デザインし直す(リデザインする)ことが可能である。「すべてのしがらみを捨てて(連帯を捨てて)、金の力で自由に子育てしよう」という言説は、究極的な消費者志向に、市場への依存に、市場からの支配に、あなたを誘導している。「自由なしがらみのない夢のコミュニティがある」という言説は、宗教的救済にあなたを誘導している。よだか総研は、そのどちらの言説も採用しない。

 しがらみの内容をリデザインしよう。あなた自身や、参加する一人ひとりが息をするための、新しい連帯やコミュニティを作ろう。うまくいかなくなって、また息ができなくなってきたら、そこから脱出して、何度でもやり直そう。人が集まれば、それが力になる。創造性のある連帯やコミュニティを作ることができれば、一人でできることの何百倍もの価値や力を生むことができる。他者との共同学習や、想像もできないような創発が起こることに期待しよう。そのための関係性を醸成しよう。これが、よだか総研が「ひとり親家庭における子どもの権利」問題に取り組む際の、ひいては当事者の自治全般に取り組む際の、基本的な方針である。

 そのために有効だと考えられる情報や手法を以下に列挙して、本稿を終える。すでに存在するひとり親のコミュニティが、どのように生成発展してきたかのケーススタディを行うことは、今後新たな連帯やコミュニティを増やしていくために有用である。また、コミュニティ内でどのような話題が共有され、どのような交流が行われているかをある程度公開することは、より多くの参加を得ることに繋がる可能性を秘めている。コミュニティオーガナイジングを始めとする協力のデザインについての情報を学べば、当事者が持つ力をより深く理解し、用いることができるようになzる。LGBTsなどひとり親以外の分野において、当事者がどのように批判を克服してきたかも参考になるだろう。フェミニズムの歴史や先人の思想は、当事者としての悩みや問いを、歴史的に定位してくれるかもしれない。一握りの「理解ある職場」や「理解あるパートナー」を探し続けるのは、宝くじに頼るのと同じだ。自分で今いる職場の理解を切り開くか、あなたらしい方法で、雇われずに稼ぐ方法を身につけよう。

以上