「農村未来主義宣言」への批判

文責 中原淳

IAMASの同級生で、友人のアーティスト、三原総一郎さんから、国際芸術センター青森で開催中の展覧会「エナジー・イン・ルーラル」の資料をもらった。その中で、興味深い記事があったので、和訳して論考する。その記事とは、「エナジー・イン・ルーラル」のキュレーター レアンドロ・ピサノによる「農村未来主義宣言」である。筆者による荒い和訳はこちら。

農村(ルーラル rural)に「位置ある自己」として、これはとても興味深く、ついアレコレ考えてしまう。また、著者は、かつてNTT ICC等でメディアアートの展示に関わり、現在、京都大学農学研究科にて、農村研究の博士論文を執筆中であり、この話題を避けて通れないので、論考した。

なお、これは、「農村未来主義宣言」への論考である。「エナジー・イン・ルーラル」展には言及しない。(なぜならば、遠方でまだ見ていないから。見に行きたい。) では、批判的に論考してみよう。


農村に位置のある農村研究者として、宣言の項目 3-8 は、大いに同意する。ぜひとも、この宣言について、多くの人々が影響を受けて、そのような可能性に世界が開かれて欲しいと思っている。

宣言の項目 9、10 については、アーティストたちが、この立場を表現するのは良く分かる。どちらかと言えば、「常識的」な宣言だと思うし、良心的であって、逆に言えば陳腐にも聞こえる。今更、「聴く」ことに注目するのかよ? イバン・イリイチのエッセイ「静けさはみんなのもの」とか、マリー・シェーファーのサウンド・エデュケーションとか、ジョン・ケージとか。まぁ、そういうのは色々あったよね。しかし、そんな猫パンチみたいな、芸術表現は、「避けられない周縁性(inescapable marginality)」に、まったく対抗できなかったのでは?

この文脈で、「そんなことアーティストに期待するな!」とか言うんだったら、今更、「宣言!」なんてしない方が良いと思う。おとなしく、オタクっぽい美術館のホワイトキューブに逃げ帰って、農村とは無関係にキラキラした素敵なセンスの「作品」でも作っておけばよいのだ。そんなものは、ほとんどの人々には関係がないし、「だから、美術なんてどうでもいいんだ」を実証するだろう。


で、ここからが、本題だ。著者(農村に位置のある農村研究者)が、宣言について、このように反論することは、おそらく宣言者らは、「想定済み」だろう。なぜならば、事前に宣言の項目1、2があるからだ。

著者は、宣言について、農村に住んでいる生活者兼研究者として批判している。ようするに、コミュニタリアニズムから批判している。そして、項目1、2は、その二項対立の廃棄を宣言する。要点はここだ。

宣言は、belonging vs. alienation の対立、つまり帰属/疎外、地域住民/よそ者、地域住民/移住者などの対立や、「境界線」を否定しようと試みている。こんなことは、可能なのだろうか? 著者は、非常に否定的だ。

このような言説のアプローチは、デリダ、ヘーゲルなど様々な哲学の論考に良く表れる。あるいは、より直接的には、柳田国男の「都市と農村」にも現れる。俗っぽい、詐欺的な事例では日本の農村における「関係人口」論だろう。詳しい哲学的な落としどころは、著者には良く分からない。ジクムント・バウマンの「境界線」の議論によれば、この二項対立を無くして、社会(農村)を形成するなんて不可能にみえるが? 帰属/疎外が、簡単に消えるなら、社会学は不要だ。

しかし、はっきりと分かることは、現実において、この二項対立になんらかの合意を見出すことが、すなわち政治なのだ。だから、宣言が言う「農村とは立場の表現なのである(it is expression of “positionality“)」は正しい。また、宣言が言う「対立的共存(conflictual coexistences)」は、好ましいと思う。

著者は、プルードンの系列弁証法のように、この二項対立が止揚することは無い、と考えている。あるのは、並走と対立と動的均衡だ。(だから、柳田国男や関係人口論は、詐欺だと思ってる)

宣言が言う、二項対立への「挑戦する(challenge)」や、「超える(beyond)」とは、どういう意味なのだろう? ここが問題だ。そして、大概、この問題をあいまいにすると、日本の関係人口政策のように、人類学的ツーリズム(パウロ・フレイレ)が発動する。「自分は農村に位置ある人間だ」とか「二項対立を超越したのだ」という、アーティストや移住者が、その土地の予算食いつぶし、調査し、表象し、土着の文化を剽窃して、次々とグローバルに「転進」してゆくのだ。お願い、もう止めて? アーティスト・イン・レジデンスによくある緊張関係ですね。アルアル過ぎて、まだやっているのか?と思う。 だいたい、遠く離れた他人を、勝手に代弁する奴に、ロクなやつはいない。普通にスターリンが、国民に対して「同胞(二項対立の超越)」と語りかけたら怖いでしょ? 非対称は、そのまま非対称として理解、批判すべきだ。

この宣言が受け止めるべき現実観は、やっぱり古典的に、「東京都のど真ん中に、原子力発電所がない」理由や、「沖縄だけに、軍事基地が集中している」理由、「縄張りを追われる白クマ」の声を、「深く聴く」ことからくる現実観なのではあるまいか? この文脈で、どうやって belonging vs. alienation(帰属/疎外)を乗り越えろと?

「当事者が、二項対立に挑戦する」ことなど、期待するだけでも失礼だ。被害者意識を消せと?

アーティストやフィールドワーカーが、どれだけ現地に長く滞在したところで、その当事者性(indentitiy)を代位することも、代弁することもできない。だから、二項対立への「挑戦する(challenge)」や、「超える(beyond)」は、不可能だと思う。ただそこには、圧倒的な他者がいるだけだ。

要するに、項目1、2は、悪手だと思うし、詐欺師を生み出す詐欺の教科書になると思う。

正しいのは、「他者の合理性への尊敬と理解」だと思う。典型的な農村などありはしないし、農村民が、1つの大きな概念(農村)に帰属しているわけではない。その帰属は、むしろ、それを概念操作することによって、他人から詐取するために使われる傾向がある。おそらく、Rural である人々は、その言葉を口にすることなく、淡々と、「抵抗のための実践」をしている。

Rural とか言う奴を、簡単に信用するな!

(俺も、信用するな!)