子どもの権利のための政策構想(2)善意について

まえがき

当団体は、「息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン」(2022)において、岐阜県本巣市における「子どもの権利」、特に参加する権利の現状について、さまざまな市民の声をもとに考察した。また本作の出版に先立って、市民大学「よだかの学校」における子どもの権利に関連するゼミ[1][2][3][4][5]の実施や、本巣市市民協働事業「まわる市民協働」における子どもの拠点づくりの実践との連携や支援、子育て支援や子ども支援の実践者へのヒアリングなど、さまざまな取り組みを積み重ねてきた。これらの実践を元に、岐阜県(特に西濃地域)における子どもの参加する権利を推進するまちづくり実践や、地域のよりよい子ども政策の実現に貢献するため、「子どもの権利のための政策構想」と題した一連の記事群を、順次公開する。

もくじ

(1)評価について
(2)善意について ※本記事
(3)意見表明 [予定]
(4)抑圧と優しさ [予定]
(5)話し合うこと [予定]
(6)待つこと [予定]
(7)離れること [予定]
以下未定

善意について−本論

1.善意と代弁

「子どもたちのために、何かできることがないか」と考えるのは、生命としての人間にとって、自然なことだ。子どもに接する機会があったり、持続的なまちづくりへの責任を感じていたりする人であれば、なおのことだ。筆者にも当然、こうした心の動きはある。しかし同時に、この心の動きを無条件に信用するべきではない、とも考える。使命感や志に燃えた状態にいれば、弊害や盲点を忘れていられるからだ。今回は、冒頭に書いたような心の動き=「善意」と、子どもの権利のための政策やまちづくり実践の関係について書く。

息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン」では、岐阜県本巣市のある母親が語った、下記のエピソードを紹介した。

 子どものやっていることに対して、ダメだと言う地域の大人がたくさんいて、親の私が、よくお叱りを受けます。木登りは危ない、側溝で遊ぶと危ない、裸足で遊ぶと危ない。「だから、子どもにやめてと言っといて」と、地域の大人の方々から、よく言われます。心配してくれているので、ありがたいことだと思って、わたしは「わかりました、気をつけます」とお返事します。でも、子どもには「気をつけなよ」と言うだけで、「やめなさい」とは言いません。自分のしたいことができないと、本当の学びや気付きも得られないし、自分のことが好きになれなくなり、周りの人たちのことも大切にできない、と思うからです。

息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン,p.21

マガジンにも書いた通り、 ここで登場する地域の大人が用いるのは、危険性(リスク)がある行動はやめるべき、という「ゼロリスク」の要求だ。ゼロリスク要求がもたらすネガティブな影響と、子どもに対するあるべきリスクコミュニケーションの方法、ゼロリスク要求とパターナリズムとの関係は、マガジンの第2章に書いた。今回、改めて指摘したいのは、こうした過度な安全要求が「善意」に基づいて発出される場合が多々あるということだ。

相手の意見を無視して(もしくは確認せずに)相手のために良かれと思ってすることを、パターナリズムという。パターナリズムは善意と深く結び付いている。しかし、「ある行動が善意に基づくこと」と「ある行動が適切であること」は、本来全く関係がない。善意は、たやすく他者を代弁する動機になる。そして、あなたが誰かのことを代弁すれば、代弁した相手は沈黙する(させられる)。マガジンでは、下記のように書いた。

わたしたちに必要なものは、これ以上の善意ではないように思います。ゼロリスク要求と善意が強く結びついていればこそ、子どもたちは何も言えなくなり、息が詰まるのです。善意が不要だと言っているのではありません。わたしたちに必要なものは、子どもの声を代弁したり先回りしたりすることではなく、子どもの意見表明を観察したり声が上がるのを待ったりすることだ、と言っているのです。

息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン,p.2324

余談だが、筆者の友人が教えてくれたことを紹介する。法律用語としての善意は、単刀直入に「ある事実について知らない」という意味で用いられるそうだ(例:善意の第三者)。

2.善意と競争

筆者は以前の記事(評価について)で、子どもたちが過度に競争的な教育システムの中に置かれていることを紹介した(毎回太字にしているのは、せめてこの言葉だけでも覚えてほしいからだ)。ここで、善意と競争的な教育システムの関係についても考えてみたい。筆者が観察する限り、今日の教育システムに関与している大人たち(教師・保護者・塾業界など)の動機は、ほとんどの場合、大なり小なりそれぞれの善意による。現状の教育システムの問題への指摘は各所に山積しているが、教育に関わる人々の善意が不足している、という指摘はほとんど見当たらない。

教育システムにおいてはむしろ、善意の弊害から生じてきた問題が数多く存在する。例えば、体罰は長いあいだ、暴行や虐待としてみなされず、むしろ「愛の鞭」や「しつけ」や「指導」と言い換えられてきた。危険を伴うはずの巨大組体操が運動会でずっと続けられてきたのは、保護者に人気で、クラスのまとまりが生まれると信じられてきたからだ。同様に、過度に競争的な教育システムが存在している理由も、人々の善意にあるのではないか。

頑張って、努力すれば、必ず勝てる。
勝ちたいのなら、もっとこうすべきだ。
勝たなくては、意味がない。
これが、勝てる子どもを育てる方法だ。

「勝つ」を、「稼ぐ」や「合格する」に置き換えたら、もっと身近に感じられるかもしれない。こうした言葉や姿勢は、世の中にありふれている。所与の成果指標に基づいて競争させ、勝者には強力なインセンティブを与えるというシステムは、大人の善意と結びつき、子どもたちを競争へと駆り立てる。子どもに向けられた善意によって、子ども同士の競争は加速する。

3.子どもの権利のための政策構想(2)善意

繰り返すが、筆者は善意が不要だと主張しているのではない。「子どもたちのために、何かできることがないか」という善意は、個人が最初の一歩を踏み出すためにはむしろ有効で、重要だ。しかし政策は、個人的な範囲を遥かに超えて、目の前の相手にとどまらず、まだ見ぬ他者の行動も左右ことができる。政策と、特定の個人の善意が強く結び付くことは、美談のようだが、危険でもある。本記事の冒頭に書いた「使命感や志に燃えた状態にいれば、弊害や盲点を忘れていられる」ということは、心理学的にも明らかになっている。マガジンには、下記のように書いた。

また、わたしたちは、権力者や統治機構の人々の善意に頼ることで、子どもの意見viewsが政治や行政に反映することができるとも考えていません。上に立つ人の善意によってではなく、子どもが置かれている状況への適切な理解が広まることと、大人も子どもも誰もが持っている力を発揮できる環境をつくっていくことにしか、根本的な解決策はありえないとわたしたちは考えています。

息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン,p.16

子どもの権利を推進するまちづくり実践や地域のよりよい子ども政策づくりにおいて必要なことは、その担い手に”視野を開くこと”を求める「倫理的な政策形成」ではないだろうか。倫理ethicとは、善意の根拠(=道徳moral)の妥当性を問い直す行為を指す。善意に基づく「道徳的な政策形成」が、善意の根拠に揺らぎがなく、ある意味ではその担い手に”視野を閉じること”を求めるのとは対照的だ。

具体的にどのような内容や方法が「倫理的な政策形成」と呼べるかについては議論の余地があるが、筆者は現時点で、下記の3点が重要だと考える。

1)裁量権を持った特定の人物による独断ではなく、関係する人々の参加と合意に基づいて決定される。異なる価値観の人々が対話し、時に衝突し、妥協し、時に統合する民主的プロセスは、倫理的な政策立案の根幹である。こうしたプロセスは、結果的に、より高い次元の視点や価値観での合意を生み、ある手段に対するより深い理解を育み、よりよい実践をもたらす可能性がある。

2)政策が持つポジティブな影響だけでなく、ネガティブな影響に対しても同様に着目する。善意は盲点や先入観を生み出し、ネガティブな影響を目隠しする。この項目により、手段同士を合理的に比較し、ネガティブな影響を最小化することができる。また、この項目は新たな政策と同様に、既存の政策や施策も対象となる。新たな政策形成が着目される背景には、既存の政策や施策に、盲点やネガティブな影響が存在する場合があるからだ。

3)格差や差別を是正するための積極的な是正措置が取られている(アファーマティブ・アクション)。参加・対話・合意によって倫理性を保とうとするとき、参加しづらい人・対話しづらい人・合意から排除されやすい人など、格差や差別の影響を受ける人々への配慮は必須となる。こうした状況への是正措置がなければ、上の2項目の意味は失われる。一般的に、子どもは大人よりも発言力や影響力が小さい。また、自分の意見を言うことで安全が脅かされる不安があれば、意見は予め封じ込められてしまう。子どもの権利のための政策であれば、子ども自身が安全に、安心できる形で、参加できる環境を用意することが必要不可欠となる。

よだか総研は、岐阜県の本巣市や揖斐川町を中心に、保育士・評価士・岐阜県コミュニティ診断士などのメンバーが、子どもの権利を推進するまちづくり実践や、よりよい子ども政策の実現に関する事業を展開しています。当団体へのご相談・ご依頼はこちらから

(文責:小池)